ヨーロッパ映画

イギリス映画の感想 『シャイニング』

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モダン・ホラーの帝王スティーブン・キングの代表作の映画化。
雪に閉ざされるため閉鎖されるホテルを冬の間だけ管理することになった小説家家族の恐怖を描いたホラー。「原作と随分違う!」とキングは激怒したらしい…が、僕は原作を知らない。原作とイメージは大分変わっているのかもしれないが、映画は理屈抜きに面白いと思う。
フランス人形の如く不気味な双子の姉妹、血の大洪水、氷の迷路、REDRAM(→MARDER)・・・不気味かつ優麗なシーンの数々。ホテルに潜む怖さの原因は何なのか?これが具体的には明らかにされないことを逆手にとって、とにかくキューブリック演出は、説明抜きに見せることを徹底する。「身の毛もよだつ」ではなく「酔いしれている内に、何か大きなものに押し潰されそう」な恐怖である。

少々、悪ノリが過ぎる感のジャック・ニコルソン。終盤ではその異常さが滑稽で笑えてしまう。シェリー・デュヴァルの恐れおののく表情の方が恐いくらいである。もうその段階では、恐怖などは大分薄れてしまっているのだけれど、観終わった後の充実感は決して損なわれることはない。


 『シャイニング』                               Shining2_2
  監督:スタンリー・キューブリック
  脚本:スタンリー・キューブリック
  撮影:ジョン・オルコット
  音楽:ベラ・バートック
  出演:ジャック・ニコルソン
      シェリー・デュバル
      ダニー・ロイド
      スキャットマン・クローザース
  (1980、イギリス・アメリカ)

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イギリス映画の感想 『バリー・リンドン』

18世紀のヨーロッパ。純朴な青年バリーは故郷を追われ、様々な冒険をする。
戦争、脱走、スパイ、賭博師・・・そして美貌のリンドン夫人を誘惑した彼は遂に上流階級に登りつめる。しかしバリーには次々に不幸が襲い掛かり・・・

一人のアイルランド人青年がたどる波乱万丈な人生模様を描いた映画。
しかし、今回もキューブリックはライアン・オニール演じるバリーの内面を深くえぐろうとはせず、彼が辿った様々な事柄をあくまで表面的事象として淡々と切り取っていくだけ。例によって、キューブリックならではの冷たい視線があるのみだ。第1部では戦争社会の弊害、第2部では上流社会の退廃。ストーリーの過程で、バリーはヨーロッパ各国を放浪していくわけだが、国や環境が変わればやはりそのルールも変わる。バリーは、あまり裕福とはいえない育ちであり、掴み取った栄光になんとかしがみつこうと頑張るわけだが、そのルールというプレッシャーに徐々に押しつぶされてゆく。当たり前のように、至る所で存在する様々なルールは、所詮同じ人間が自分たちの都合のいいように作ったものであり、そしてそれはいかに危ういものであるかというものをバリーの体験を通して観る者に知らしめてくれている。これは決して、主人公バリーを哀れみ悲しむ映画ではなく、人間の醜さ、強いては社会全体への強烈な皮肉を込めた、やはりキューブリック節のいっぱい詰まった作品なのだと思う。

この映画の為に発明されたのだという、ロウソクの火のみで撮影が可能な特殊カメラを用いた室内の映像、晴天ではなく英国地方特有の曇り空でも、その芝の青々しさが最大限に映えているという草原での戦闘シーン・・・
「映画は総合芸術だ」という言葉はこの映画のために用意されたのだと思わずにはいられない、素晴らしい映像の数々は必見。


 『バリー・リンドン』                             Barry_lyndon
  監督:スタンリー・キューブリック
  脚本:スタンリー・キューブリック
  撮影:ジョン・オルコット
  音楽:レナード・ローゼンマン
  出演:ライアン・オニール
      マリサ・ベレンソン
      パトリック・マギー
      ハーディ・クリューガー
  (1975、イギリス)

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イギリス映画の感想 『時計仕掛けのオレンジ』

公開当時、イギリスではこの映画を真似た残虐な事件が連続したとかで、社会問題になったようである。今観てみても、確かに残酷には違いないが、それほどショックを受けるような過激さはない。それだけ現代の暴力性が度を越し、私たちがそれに慣れてしまったということだろう。

この映画には、暴力や性的虐待、洗脳といったものを真正面から捉えるのではなく、あくまで変化球攻めで、今見ても少しも色褪せないような丁寧な“配慮”が施されている。それは私たち現代人が、本当は目を背けてもおかしくないくらい過激で悲惨な事象に対して、ある程度の“慣れ”を感じてしまうようになることも予見するかのよう。その例として、この映画における暴力・セックス・ドラッグといった問題の描写は驚くほどポップである。

しかし、デフォルメこそされているものの、この30数年前に製作された映画の中の出来事というのは、実はそっくりそのまま現代に通じるものがある(ホームレスの襲撃や国家、宗教など権力による洗脳)。シンセサイザーで荒々しく演奏されるクラシック、ドラッグをミルクに置き換えてみる、SEXを情も何もあったもんじゃない言葉=「イン・アウト」なんて表現をしてしまうあたりは、冷え切った現代社会そのものの姿ではないだろうか。「深刻」な問題提起にもかかわらず、小難しくもないし、映画そのものも掛け値なしに面白いと思う。


 『時計仕掛けのオレンジ』                         Clockwork_olange
  監督:スタンリー・キューブリック
  脚本:スタンリー・キューブリック
  撮影:ジョン・オルコット
  音楽:ウォルター・カーロス
  出演:マルコム・マクダウェル
      パトリック・マギー
      ウォーレン・クラーク
      マイケル・ベイツ
  (1972、イギリス)

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イギリス映画の感想 『2001年宇宙の旅』

確か10年ほど前にBSで見たのだが、あまり内容を覚えていなかった。
というか、寝不足や泥酔状態で観てはいけない映画だったのだと思う。極力無駄なセリフは排除されているし、勇壮なクラシックの奏でも絶好の子守唄になるからだ。改めて観終わってみて、正直「ん~?だから何なんだ!?」って感じなのだが、レンタル用DVDには原作・脚本のアーサー・クラーク氏による映画公開直前の貴重な講演映像が付録として付いており、これが大変興味深い。そのコメントを聞くと、この映画の意味も少しは読み取ることが出来る。

まず、劇中に登場するモノリス(黒い板状の物体)のモデルのような電波を発する謎の物体がこの当時ベガとアルタイルの間の地点から実際に発見されているということ。これは、宇宙における人間以外の知性を持った生物の存在を高めるものとして重要な根拠となる。さらに、宇宙にはいくつかの知的生物が存在し、我々人間のランクというのはその生物の中でも限りなく低いということが、本作の中では示唆されている。その象徴的シーンとして、過酷な木星への道のりを終えたデイブはまるで浦島太郎のように老け込んでいる。よくてもたかだか100年余しか生きられない人間という生物の限界を示しているかの様。

しかし、こうした“予言”の数々も実際に21世紀を迎えた今観てみると、ちょっと陳腐さと嘘クサさを感じずにはいられない。1992年にHAL9000型コンピュータが生まれることはなかったし、宇宙開発はアポロ計画終了後すっかり停滞して、宇宙ステーションの建設も月面基地も夢物語になってしまったのだし、それどころかいまだスペースシャトルは打ち上げすらままならない状態だ。人間と自然な会話をする人工知能と、宇宙旅行のための人工冬眠システムも完全に予測外れだし、無重力空間の中で人間が磁力による吸着シューズを履いてわざわざ床を歩くというのも、今見るとかなり滑稽。ストローでチューチューやる宇宙食は見るからに味気が無さそう。でも、これは映画が劣っているという意味ではなくて、あくまで時代がそこまで進歩しなかったんだから仕様がないこと。

そういう未来の細かい部分の予見ばかりが取り沙汰される本作だが、むしろキューブリックとクラークがこの映画で語りたかったことの本質、地球外の知的生命の存在とその能力が如何ほどのものであるか?などのテーマはいまだ謎のままで、その答えはまだ出ていない。この映画には十人十色の解釈があり、様々な考えを聞くだけでも楽しいと思うが、21世紀に突入した今でも、まだまだそういうスタンスで望めばいいのだと思う。“解釈”することは出来ても“解明”することは今の人類ではまだ無理な話。そういう意味では今でもタイムリーな映画であると言える。そもそもSF映画というものは、その未来に近づくにつれ、現実とのギャップ、空想ゆえのチープさが際立ってくるものだが、この映画がいまだ古臭さを感じさせない要因もそこら辺にあるのではと思う。


 『2001年宇宙の旅』                            2001_a_space_2
  監督:スタンリー・キューブリック
  脚本:スタンリー・キューブリック
      アーサー・C・クラーク
  撮影:ジェフリー・アンスワース
  出演:ケア・ダレー
      ゲーリー・ロックウッド
      ウィリアム・シルベスター
  (1968、イギリス・アメリカ)

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フランス映画の感想 『ドーベルマン』

これは期待はずれ。この監督はとにかくビジュアルにばっかりこだわっていて、肝心のアクションを効果的に見せる、とか登場人物たちの魅力を引き出すことに関しては、決定的に怠っている。

都合105分の映画。主な見せ場は、銀行襲撃と警察のバーの手入れの2度。まずこの手の映画でこの尺なら、4度の見せ場は作れるはず。それが何故2度に留まっているのかというと、不要なシーンが多すぎて、そのため映画全体のテンポが損なわれているのである。銀行襲撃中に、ヴァンサン・カッセル=ドーベルマンとモニカ・ベルッチ=ナットは熱い抱擁&キスをいつまでも交わしている。確かに、この襲撃グループは警察の目をそらすために街の至る場所に布石を打つのだが、それにしてもダラダラし過ぎ。あげくのはては、銀行に残しておいた二人を助けにもう一度銀行まで戻り、その奪還にまで成功してしまう・・・「張り込みまでしておきながら、警察は何やってんだ!?」と言いたいところ。

ドーベルマン率いる強盗団も間抜けなら、警察も同様に間抜け。イカれた刑事、チェキー・カリョでなくともこの状況にはキレて当然のお粗末さ。バーの手入れでも、いざ銃撃戦に入るまでが長い長い。これといって、話の本筋とは関係ないオカマと強盗団たちの宴を延々と見せられるだけ。肝心の銃撃戦も暗すぎてわからない。暗闇の銃撃戦なら、発砲の際の閃光を効果的に使えよ、とも思う。
こうなればドーベルマン対イカれた刑事の対峙だけが楽しみなのだが、それも意外とあっさり決着がついて、拍子抜け。

ベルッチ演じるナットが聾唖の女。他にも強盗団の中には神父までいるのだが、この特異なキャラたちが、その特徴を生かした効果的シーンがあるのかといえば、結局何も無かったりする。要するに、聾唖と神父でなくとも普通の人間でも話は充分成立可能。このキャラ設定はただのお遊びに過ぎない。他の面々も「スゴ腕のプロ集団」と恐れられている割には間抜け。
ヴァンサン・カッセルには、アクション面のキレの良さやダーティー・ヒーローとしてのふてぶてしさなど微塵も感じられず、ただの“思い切りのいい男”というだけで終わってしまっている。


 『ドーベルマン』                              Dovel
  監督:ヤン・クーネン
  脚本:ジョエル・ホーサン
  出演:ヴァンサン・カッセル
      モニカ・ベルッチ
      チェキー・カリョ
      ロマン・デュリス
  (1997、フランス)

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イタリア映画の感想 『暗殺の森』

13歳の時にホモの運転手に犯されそうになったマルチェロ少年は彼を射殺。
そのトラウマから逃れるかのように、大人になった彼はファシズムへと身を委ねていく。中産階級の娘との婚約すらも、逃避の手段でしかない。やがてファシスト党本部から、フランスに亡命中の学生時代の恩師、クアドリ教授の調査を命じられパリに赴くものの、任務がクアドリの暗殺に変更されて彼は苦悩する・・・

ファシズム、退廃といったイタリア映画お馴染みのキーワードがベルトルッチ独特の官能美を織り交ぜ描かれる。
本作の主人公、マルチェロは自らのトラウマによって崩壊していく哀しき男。しかし、少年時代の男に犯されたという体験が、何故そのまま本人の政治的思考へと繋がるのか?いや、マルチェロは政治的思考ではなく単なる体制順応主義者(本作の原題)である。要するに過度の臆病者かつ、典型的な“長いものに巻かれる”人間となっている。支配者がファシズムでも、反ファシズムでもマルチェロにとっては結局どうでもいいことなのである。

それにしても、この一見取り澄ましたマルチェロという男の内部の病巣は暗くて深い。母親のお抱え運転手にして情夫を始末する時も決して自らは一切手を汚そうとしないし、最大の山場、反ファシズムの教授暗殺の場でも、土壇場になると車の後部座席に座ったまま一歩も外に出ることもない。閉ざしたウインドー越しに必死に助けを求める教授の婚約者・アンナまで無表情に座視黙殺するのだ。そしてラスト、崩落するファシズムに群衆が沸き立ち騒然とする最中、助けを求めて来た盲目の恩人さえも裏切り、恥も外聞もなく、見苦しく糾弾する側に身を置こうとする。まったくもって、潔悪く卑劣な男である。そして街角の一隅から聞こえてきた「東洋のキモノも持っている。蝶々夫人を知っているか」(byかつて殺めたはずのホモ運転手)という台詞を再び耳にして、殺人を犯したというトラウマの源泉そのものが間違いであったことを知って、根底から全てのものが崩壊し茫然自失になる主人公マルチェロのクローズアップでこの映画は終わる。

過去のトラウマに苛まれ、時代の波に翻弄された男、マルチェロ。
ベルトルッチ作品らしく、映像は際立って美しいのだが、マルチェロの悲惨な物語を引き立てるという意味においては、この美しい映像群の存在意義は全く無いに等しい。見終わってしばらくすれば、きっと美しい映像しか記憶に残らないからだ。まるで主人公への共感を突き放しているかの様。徹底して哀れな映画である。


 『暗殺の森』                                 Ansatsu_2
  監督:ベルナルド・ベルトルッチ
  脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
  撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
  出演:ジャン・ルイ・トランティニャン
      ステファニア・サンドレッリ
      ドミニク・サンダ
      ピエール・クレマンティ
  (1970、イタリア・フランス・西ドイツ)

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チェコ映画の感想 『悦楽共犯者』

チェコの前衛映像作家、ヤン・シュバンクマイエルの1996年製作の長編です。
と、のっけから知ったかぶりに述べておりますが、僕はヤン・シュバンクマイエルという人は知りませんでした。僕自身、ゴダールとかブニュエルの映画だったり、ダリの絵画だったり、安部公房の小説だったり、所謂シュールレアリズムは少し苦手なのですが、後輩に勧められて見てみました。

6人の男女が登場しますが、冒頭から各々いろいろな作業をしています。何かの基盤を作ったり、粘土細工をしたり、棒状のものに指サックや釘を打ち付けたり、パンをほじくっては丸めたり・・・各々、変な作業を終えた後は、一人遊びに勤しみます。ニワトリになりきってアパートの向かいに住むオバハンに似せた人形をいたぶる男、対するオバハンも向かいの男に似せた人形相手にSMプレイに没頭します。指サックや毛皮、画鋲や釘を裸体にまぐわせて果てる男、その男の妻であるニュースキャスターは鯉に愛撫され絶頂を迎えます。そのニュースキャスターをオカズに自作の自慰機械で快楽を貪る男、パンを丸めていた郵便配達の女は耳の穴や鼻の穴から丸めたパンを一気に吸い込むことが快楽みたいです。

こうやって書いていると、何のことやら、わかりにくいかと思いますが、実際に映画を観てもこのまんまです。なんてたって、シュールレアリズム=超現実主義ですから仕方ありません。面白い、面白くないは人それぞれ、論ずる、評する、ということがあまりにも野暮な“感じる”映画でございます。ただ、シュールはシュールでも、ゴダールや吉田喜重の映画のように、政治や思想といった背景は無く、人の性癖のみがテーマの映画ですからわかりやすいですし、87分という上映時間もお手軽なものです。

やっぱり性癖って恥ずかしいものなんですよね。この映画の登場人物たちも常に人目を気にしてビクビクしているところが面白いです。これは映画ですから、かなり大袈裟な風で性癖というものを表現していますが、もっと日常に近い部分で人には言えない性癖、誰しもがお持ちだと思います。ちなみに僕はヘソのゴマの匂いを嗅ぐことですが(言うてもうてるやん)。

1996年製作の映画のはずですが、出てくるモノ、機械や車や日用品や室内のデザインが結構古臭く、フィルムの質感と相まって、なにか70年代の映画を観ているようでした。あと、この映画セリフを一切排しているのですが、そのかわり食べる、飲む、塗りつける、こねる、息をする、歩く・・・日常の全ての効果音を強調しているのがやけに生々しいです。「いけないものを覗き見している」という感覚に自然と溺れてしまいます。


 『悦楽共犯者』                                 Etsuraku
  監督・脚本・美術:ヤン・シュバンクマイエル
  出演:ペトル・メイセル
      イジィ・ラーブス
      バルボラ・フルザノヴァー
      ガブリエラ・ヴィルヘルモヴァー
  (1996、チェコ・英国・スイス)

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スペイン映画の感想 『オール・アバウト・マイ・マザー』

『バチ当たり修道院の最期』のペドロ・アルモドバル監督作品です。
この映画でもちょっとフツーじゃない人々が多数登場します。
ノーマルなゲイ(矛盾?)、バイセクシャルなゲイ、ドラッグ漬け、ボケ老人…そんな社会的に認知されがたい人々が、打ちのめされても必死に生きる希望を見出そうとする姿がユーモアたっぷりに描かれ、そして映画全体に何か生へのパワーのようなものがたくさん満ち溢れています。

主人公の息子の死に始まり、主人公がかつて愛した男の子を宿したシスターの死など、登場人物たちには様々な試練、悲しみが訪れるのですが、この映画はそういった感傷的場面を落涙寸前でサクッと簡単に片付けてしまうのです。もう、次のシーンではいきいきとした生活が訪れているといった具合に。何があっても前向きに生きようとする人々の姿をひたすら描いていて、「人間ってそういうものさ」「自分を責めてはいけないんだ」というとても嬉しい安堵感を与えてくれます。「生きているって素晴らしい」そんなお行儀の良いメッセージではありませんが、「いいことあるかもね」という気持ちくらいは自然と生まれてきます。

まるでアクションドラマのようなテンポの速さとあっけらかんな感じは、見る人によってはちょっと戸惑いを感じずにはいられないかもしれませんが、個人的にはこの映画の持つ説教臭くないスタイルは心地良かったです。たいていの映画では、オフザケとインパクトを担う役割に過ぎないゲイという人種が、ちゃんと喜怒哀楽を持った人間として描かれていることも新鮮だと思います。
2000年アカデミー外国語映画賞受賞。


 『オール・アバウト・マイ・マザー』                    All_about
  監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
  出演:セシリア・ロス
      マリサ・パレデス
      ペネロペ・クルス
      アントニオ・サン・ファン
 (2000、スペイン)

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スペイン映画の感想 『バチ当たり修道院の最期』

恋人を麻薬で死なせてしまった歌手ヨランダは、警察から逃れるため「駆け込み寺」という修道院に匿ってもらいますが、その修道院の実態はとんでもないものでした。
修道院の尼僧たちには、「最底辺の物を理解しなければ救済は得られない」という教義の元にとんでもない名前が付けられていますが、名前だけでなく個々のキャラも強烈です。人殺しの“肥溜め”尼、官能小説作家の“どぶ鼠”尼、何故か修道院内で虎を飼育する“堕落”尼、神父と恋仲の“毒蛇”尼、そして強烈キャラの彼女らを取り仕切るのがヘロイン中毒(!)の尼長。まったくバチ当たりな人ばかりで…この邦題がいかに秀逸なものなのか良くわかります(笑)

それでこの後どんな展開が待ち受けているのかと思いきや、意外と物語は淡々と進みます。その方法論や考え方は無茶な尼僧たちも、なんとか閉鎖寸前の「駆け込み寺」を維持しようという純粋な気持ちの下、一致団結しており、意外と好感持てる人たちです。しかし、尼とて普通の人間であり女です。このまま俗世間から取り残されることを不安に感じています。そんな尼たちの新しい人生の転換のきっかけとなるのが、最後の駆け込み娘であるヨランダです。また、ヨランダ自身もこの修道院に心地よさを感じ始めます。というか、この修道院の実態に疑問を感じずに、平々凡々と暮らすヨランダも異常といえば異常なのかもしれませんが・・・

カトリックの国であるスペインでこの修道院を描いてしまう、というのはそれだけでスキャンダラスだと思いますし、結果、カンヌまで上映拒否をしましたが、なにぶん私、キリスト教関連には全く無知なもので、果たして本当にカトリックへの揶揄がここに存在したのかどうかはわかりません。あえてカトリック批判があったとするならば、ヨランダが神にすがることによってヤク中から解放されるのではなく、劣悪ながらも伸び伸びとした生活の中で、自分自身の自立という形で麻薬から解放されるというエピソードが象徴的でしょうか。

基本は、どんな状況下、どんな精神にあっても必死に生きる事は素晴らしいという人間そのものへの賛歌を描いた映画なのだと思います。あくまで僕の主観ですが、修道院云々は単なる設定の問題でしかないと思いました。



 『バチ当たり修道院の最期』                         Bachi
  監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
  撮影:アンヘル・ルイス・フェルナンデス
  音楽:カム・エスパーニャ
  出演:クリスチーナ・サンチェス・パスクァル
      フリエタ・セラーノ
      カルメン・マウラ
      マリサ・パレデス
  (1983、スペイン)

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イタリア映画の感想 『ソドムの市』

1944年~1945年頃、ナチス占領下の北イタリア。
ナチズムに加担する4人のファシズム権力者たち(大統領、司祭、最高判事、公爵)が、町の美少年美少女を一斉捕獲。彼らは美少年美少女相手に、同性愛、アナル・セックス、隷従、レイプ、スカトロ、拷問、などなどこの世のあらん限りの倒錯的行為に彩られた、地獄の大パノラマを繰り広げるのだった…。

イタリアの鬼才、パゾリーニの遺作にして超問題作です。この作品の撮影終了後、パゾリーニはエキストラであった同性愛者の少年に滅多殴りにされ無残な死を遂げたというスキャンダラスな話題性もあります。
しかしまぁ…これはなんと感想を述べればいいのでしょう。
特に“うんこディナー”のシーンは見るに耐えなかったです(笑)
でも、これを単なる変態趣味の映画としてこけ落とすのは簡単ですが、なんか深い映画であるのも事実です。この映画の持つ深さを追求したくて、ちょっとパゾリーニについて勉強してみました。

パゾリーニについて興味深いことは、この人は「究極の極左」だったということです。彼の支配者たちに対する批判はなにもファシズム政権だけに向けられたものではありません。彼は無神論者でもあり、その批判は当然宗教に対しても向けられています。その証拠にこの映画に「慈悲」は存在しません。捕えられた少年少女のうちには悲惨な状況に神頼みをするものも現れるのですが、劇中、決して彼らが救われることなどありません。目を逸らしたくなるような拷問が執拗に繰り返されるラストシーンでは、窓から外を眺めて恍惚としている権力者の視点だけが強調されます。そこに慈悲や哀れみの感情は全くありません。パゾリーニは反体制思想を全面に押し出し、過剰な演出で宗教観念を挑発しているように感じます。宗教に希望を見出そうとしても救われないのが現実における真実だとパゾリーニは主張し、世の中に対しての思考を「絶望」から始めることで「希望」を模索するつもりだったのかもしれません。だからこの映画では救済は訪れないのでしょう。

音楽担当は、マカロニ・ウエスタン、「ニューシネマパラダイス」、「海の上のピアニスト」等でお馴染み、巨匠・エンニオ・モリコーネです。優雅でいて穏やかな室内楽風ののどかなBGMは作品とミスマッチな印象を受けますが、ラストまでくると、まるで権力者たちのさぞかし満足な心情を表しているかのようで、かえって薄気味悪いものに感じてしまいます。このあたりはさすがに秀逸です。

とりあえず、この映画について僕は上記のようなことを思い耽りましたが、見る人が各々の見方をすればいいのではと思います。グロ描写見たさに一喜一憂するのも良いでしょうし、この映画の持つ「裏テーマ」をとことん追求してみるのも良いでしょう。
でも、“うんこディナー”には気をつけて下さい。しばらく食欲減退気味になること間違いなしです。。。


 『ソドムの市』                        Sodom
  監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
  原作:マルキ・ド・サド
  音楽:エンニオ・モリコーネ
  出演:パオロ・ボナチェッリ
      アルド・バレッティ
      ジョルジュ・カタルディ
   (1975、イタリア)

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