日本映画の感想 『炎上』
金閣が美しいのは、金閣そのものの建築様式や色合いが優れているから、というだけでもないだろう。美の対象は金閣であっても、そうでなくても、なんでも良いわけで、要はそれにどれだけの人間が魅せられ、そして魅せられた人間は自らの醜悪さに辟易とし、その美しいものへの賛辞の表れとして、どれだけ狂い果てることが出来るのか?強いては、その醜悪な羨望が多ければ多いほど、美はますます崇高さを増していくのである。 『炎上』
この映画の驟閣に魅せられた溝口(市川雷蔵)も醜悪なものとして描かれる。見た目は素朴な青年といった感じだが、吃音で塞ぎがちな青春時代を過ごしてきたために、社会的コミュニケーション能力がまったく欠如している。溝口は驟閣を唯一つの心の拠り所として、刹那的なまでに崇め、そしてその美にのめり込んでいく。
溝口と対照的な男は戸苅(仲代達矢)。この時代の内反足だ。現代のように障害者として、社会的にケアされるような時代ではない。ビッコ、カタワと呼ばれ続け、常に蔑まれながら生きてきた。吃音の溝口とは、その障害が目に見えるものか、見えないものか、という差がある。見た目にそれとわかるハンデを背負って生きてきた戸苅の方が、どちらかといえば可哀相な境遇であったわけだが、戸苅はそれを逆手にとって、痛々しい姿で女性の母性本能をくすぐり、次々と女をとっかえひっかえするほどの逞しさを持ち合わせていた。この二人の対比が物語のミソとなる。
同じく障害を持つ戸苅と傷を舐めいたかったのか、なんとなく擦り寄る溝口であったが、常に内向的な溝口に戸苅の持つ、えげつないほどのバイタリティなど理解できるはずも無かった。溝口は、老師や同門の徒弟、男癖の悪い母親ら、周囲の人間が見せる生々しい欲望に激しく嫌悪し反発する。反発するといっても溝口には、いっそう塞ぎこみ孤立することでしか反発の方法は無かった。こうして溝口は、俗世の全てを否定し拒絶する。「驟閣は誰のものでもない」と戸苅に断言する溝口であったが、驟閣の美を他の誰にも汚されたくはなかった。溝口は、驟閣に火を放つことで、自らの中にのみ、未来永劫の美をしまい込もうとするのであった。
大映の反対を押し切ってまで、この映画に出演した大スター・市川雷蔵、一世一代の名演である。同時代の他のスターにこの役をあてがっても、たぶんここまで完璧には演じきれなかっただろう。市川雷蔵などまったく知らない、若い世代にこの雷蔵の演技を見せれば、本当にドモリの素人俳優かと思ってしまうかもしれないし、また、覚束ない危うい感じがデビュー間もない俳優だという印象を与えてしまう気がする。その感覚を、当時、絶対的な権威を誇った剣劇スターが、ちょんまげを脱いで、演技として表現しているという凄味である。複雑な生い立ちであったという雷蔵自身、この主人公にどこか自分の出自を重ね合わせながら、演じていたのかもしれない。
内反足の戸苅を演じるのは、仲代達矢。ギラギラとした目が怖い仲代。溝口に向かって「お前、ドモリだって京都中に言いふらしてやろうか?俺みたいに見た目に醜ければ、何でも超越出来るんだよ!」って、屈折してるなぁ。
この映画で各映画賞を総ナメしたのが、驟閣の老師演じる二代目中村鴈治郎。中村玉緒のお父さん。ちなみに玉緒も、溝口が五番町で買った売春婦役で出演している。
監督:市川崑
脚本:和田夏十
長谷部慶治
撮影:宮川一夫
音楽:黛敏郎
出演:市川雷蔵、仲代達矢、新珠三千代、
中村鴈治郎、中村玉緒、北林谷栄、
信欣三、浜村純、香川良介
(1958、大映)
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